20170207

ヒキコマ歴史クラブ活動 NO.20

 

歴史講座 「島田家の人々」

 

講師:歴史作家 今井敏夫

 

今回の歴史講座は、江戸時代に坂戸市に知行地を持っていた島田家の話でした。

 

島田家は徳川家の三河時代からの直参で、重次の代に武蔵国入間郡坂戸に二千石の采地を得た。重次の父親の俗名(利秀とある)は不明だが、坂戸に隠居して慶長十八年(1613)五月、八十九歳でこの地に没した。法名を永源。その名をとって永源寺を建立し、代々の葬地とした。重次は家康に仕えて御使番を勤め、天正十八年には四十人の鉄砲足軽を預けられた。大坂の役では御旗奉行となり、寛永十四年九月、九十三歳で歿している。法名を以栢。

 

坂戸の永源寺にある島田家の墓所
坂戸の永源寺にある島田家の墓所

【島田直時の凄絶な自刃】

 寛永五年八月十日、江戸城西の丸にて旗本豊島信満が老中井上正就を刺殺する刃傷事件が起きた。原因は豊島が大坂・堺奉行の島田直時の嫡男直次に、井上の娘をめあわせようと井上に相談したところ、井上も異存なく「よろしく、頼み入る」との返事だった。井上は五万石の大名、島田は四千石の旗本、一見不釣合いの縁組のようだが、同じ直参だから無理な縁談ではなかった。

 ところが、井上が「この縁談を白紙に戻してほしい」と豊島に断ってきた。一徹で直情な豊島は、この井上の変節を怒った。武士が一旦、約束したことであり、島田に対しても面目が立たない。これが凶行に及んだ理由である。

 豊島はその場で斬殺され、十二歳の子供も死罪の処断をうけた。無論、領地没収、家名断絶である。豊島の知行地は相模国久良岐郡金沢(横浜市金沢区富岡町)にあり、菩提寺の慶珊寺には、信満・継重父子の塑像と墓がある。

 一方、島田直時はこの事件の急報を受けるや、豊島の無念の心情をおもい、自ら腹を切った。が、家臣がそれを発見し、外科医を呼んで傷口を縫い合わせ、なんとか一命をとり止めた。家臣は直時の周囲から、刃物類をいっさい隠してしまい、交代で見張りをすることにした。しかし、直時は家臣のちょっとした隙をみて、傷口に手を押入れ、はらわたを足指にからめて引きずりだし、凄絶な最期をとげた。

 『本光国師日記』『視聴日録』などには、十月五日の朝、やき松茸を食べ過ぎて中毒をおこし、六日に脇差を腹に突き立て腸を外に出し、七日の卯刻(午前六時)に死亡したと届出があった。これは家臣たちの苦肉の作文だったにちがいない。豊島の刃傷事件との関係をおそれたのである。が、ことはそう巧く運ばなかった。目付の厳重な検視をうけて、豊島事件に関連しての自殺と判明してしまったのである。直時の所領は取り上げられたが、長男直次や二男時郷には類は及ばなかった。

【知恵者・島田利正の直言】

 重次の五男利正は〃知恵者・切れ者〃として評判の人物で、「老中の不正を叱った話」「日光東照宮の宝塔問題の直言」「人と交際する心得」など、多くの逸話が伝えられる。幼名を兵四郎といい、秀忠に使えて、使番、御徒士頭を経て、慶長十八年町奉行となり、寛永二年従五位下弾正忠に叙された。

 ある時、老中たちが集まって、「ちかごろ、諸物が高値で万民が困っている由、どうしたら値下げできるであろうか」と評議していると、利正が進み出て、「老中さえ物を買いためるのに、利を求める商人が買いためるのは当たり前である。それで、なんで値下がりしようか」と直言した。老中たちは口を揃え、「誰が買いためたか!」と利正に詰め寄った。

 すると、利正「まず酒井讃岐守から買いおく」と言う。讃岐守(忠勝)は血相を変えて、「それがし、いささかも覚えなし」と、家老の深津九右衛門を呼んで、そのことを糺すと「さらにそのようなことはなし」という返答である。それを聞いた讃岐守は利正に向い、声を荒げて「恐れながらも天下の口真似(政治)をもする讃岐守に、どのような証拠があって、そのようなことを言うぞ」と怒鳴った。

 利正は「ならば申そう。何月何日、大豆をいかほど買ったかご存知か。馬の飼料にもせよ限度がある。何に用いるにもこれほどは入らず、これは買いおきにはあらざるか」と言った。これには讃岐守も覚えがあったとみえて、返答に窮したという。利正の歯に衣着せぬ言動は常にこのようであった。(『武野燭談』)

 

 利正は寛永十二年に剃髪して〃幽也〃と号し、同十九年九月十五日六十七歳で亡くなった。

【御家騒動に祟られた町奉行・島田忠政】

 利正の四男利木(守政・忠政と改名)は、小姓組から御徒頭、勘定頭に進み、万治元年(1658)には目付になった。さらに寛文二年には長崎奉行、同七年には町奉行(北)に就任した。この町奉行時代に「伊達騒動」に立合ったのである。こうした大事件の審理は、老中、大目付、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の五手掛かりで行われる。伊達騒動の経緯は省略するが、その判決が下った寛文十一年(1671)三月二十七日のこと。

 下馬将軍とうたわれた酒井忠清邸において、判決が下ると、伊達家家老原田甲斐がにわかに抜刀し、伊達安芸を斬殺。柴田外記にも斬りかかったので、外記も抜き合わせて甲斐に斬りつけた。甲斐は深手を負いながらも、「申したき儀これあり」と、まっすぐ忠清の居る奥の間に進み入ろうとした。

 この時、島田忠政は忠清の家臣とともに甲斐を追いかけ、折り重なるようにして、甲斐を討ち取ったと、『徳川実記』所収の「寛文日記」「元万日記」に出ている。が、以後の諸書「治家記録」等では、忠政の名は何故か出てこない。当時の落首には「たぐいなき手柄を今度島田殿 出雲こころに油断なきゆへ」と褒められている。出雲とは忠政が出雲守だったからである。

 

【箭弓神社を再建した島田政辰】

 利由の子政辰は、通称を久太郎、治兵衛、十兵衛といった。小姓組、進物番、中奥番、御徒頭をへて、書院番組頭となる。宝永二年八月、父の遺領を継ぎ、二千五百石(武蔵入間郡、上野邑楽・山田郡、下野梁田郡)を知行する。同五年、普請奉行となり鉄砲改を兼務、同七年従五位下佐渡守(弾正忠とも称した)に叙任。享保四年(1719)御旗奉行、同六年五月御留守居となり、閏七月、小五郎君(吉宗の子宗尹)誕生の蟇目(ひきめ)の役をつとめている。

 享保二年に箭弓神社を再建したという「島田弾正」とは、この政辰のことであろうか。松山本郷は島田利正が寛永十八年(1641)に三千石の加増を受けて以後、文化八年(1811)に川越藩領となるまで、百七十年間、島田氏の知行地であった。

 川越藩松平家(越前家・結城秀康の五男の家系)に併合されるとの情報に接すると、松山町民は一斉に反対の声をあげ、駕籠訴に及んだという。島田氏の治世がいかに良かったかの証明であろう。

 

※ 慶安の頃(1648-51)に編纂した『武蔵田園簿』によれば、松山町は島田八郎左衛門利宣の知行地になっており、高千九百六十九石七升九合。内六百八十四石六斗八升が田方、千二百八十四石三斗九升九合が畑方であった。ほかに入間郡片柳村の七百石があり、利宣の知行はすべて二千六百六十九石七升九合となっている。また、『武蔵風土記稿』には、氷川明神(松山神社)は貞享三年(1686)に再興され、「大旦那島田八郎左衛門利広」の棟札があるという。この利広は利宣の子である。

 

 

【遊女を足抜きさせて遠島になった島田利久】

 一族の長い歴史の中には、いろいろと困った奴も出てくる。利宣の弟利喜の三代あとの利久という男である。利久(主計)は延宝元年(1673)、五百石の遺跡を継いで御書院番に列したが、怠慢ゆえに小普請に落とされた。以前から新吉原で遊興にふけったのみならず、母親や妹までを連れて遊んだ。それどころか、悪友の神尾長次郎、遠山忠次郎らとかたらって馴染みの遊女の足抜きをやった。女の抱え主が訴え出たので、御書院番組頭の鵜殿長矩に取調べられたが、つぎつぎと嘘をならべ、それがことごとく悪質であったから厳罰を受けた。

 家名断絶、家禄没収、利久は遠島に処せられた。一緒に遊里で遊んだ母と妹も不行跡の至りであると、親類へお預けになった。

 利久は宝暦八年(1758)五月、八丈島に送られ、四十三年後の享和元年(1801)三月、七十六歳で病没した。

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