ヒキコマ歴史クラブ活動 NO.16
「古地図で巡る川越-Ⅱ」
10月4日(火) 9時に川越市役所前に集合し、元川越市立博物館長の大野さんの案内で元川越城内を歩いた。
今回は一般の観光ルートとは一味違った散策となった。
市役所前には川越城を創建した「太田道灌」の像があります。さらにその前にある石碑に「川越城大手門跡」、ここが川越城の正面入り口だった。
市役所前を東に歩いていくと、通りの右側見えてきたのが、「中の門堀跡」
土塁の上に狭間を備えた塀があったようで、実際の史跡は保存のため、見えている地面の下にあるそうだ。
川越城は中世に造られ、江戸時代に拡張された城であるためか、土塁で守られていた。
更に歩いて行くと、少し変な交差点へ。
太鼓櫓があった場所で、まっすぐな広い通りの横にある道、まがった道は旧道で、三の丸入り口のクランク状の道の名残とのこと。城のつくりが現代の道に名残として残っているところが面白い。
続いて、大野さんが館長をしていた川越市立博物館へ。ここは二の丸跡で、その前は軽犯罪の刑務所があった所だそうだ。江戸から明治になって城は廃城になったが、その跡は行政施設が多く建てられ、それがこのあたりの現在の姿になっている。
川越城内にある公共施設としては、市役所、美術館、博物館、県立川越高校などがある。
川越城には天守はなく、殿様がいた本丸御殿が現存している。
家老詰所は廃城の時に民間に売却されたが、再び移築復元された。
そのすぐそばにある、三芳野神社は城内にあった神社で、「とおりゃんせ」の唄のモデルとされるが、町人は直接お参りはできなかった。
本丸御殿の廊下の雨戸と障子の桟
3列の引き戸の溝は、外側2列が板戸、内側の1列が障子用。このことから窓の半分は板戸で覆われていたので、廊下はかなり薄暗いものであったらしい。
解説を聞いて、その情景を想像しないと江戸時代の姿、暮らしぶりは見えてこない。
三芳野神社から細い道を西に歩くと、城内一の高さ誇った富士見櫓の跡に出た。階段を登るとおおきな木に眺望は妨げられているが、高さを感じる場所であった。
更に西へ歩くと川越市立第一小学校が現れた。門の内側に「川越城南大手門跡」の石碑があった。
小学校の前の道を行くと、右に曲がっている。これは南門前の馬出しの跡が道になっているためだそうだ。
こんな解説が聞けるのも、大野さんの案内のおかげ。
その先にあるのが清水町。ここは徳川家康が鷹狩りに来た折にこの場所から出ていた清水を飲み、依頼清水丁と呼ばれたことが名前の由来。
さらに歩いて、東京電力川越支社の建物、ここには明治時代川越電気鉄道会社の火力発電所があった所。川越電気鉄道は、明治39年川越・大宮間が開通して、チンチン電車が走った。その線路の跡が道路となっていて、その軌道が感じられた。
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