20150414

水野忠邦の墓
水野忠邦の墓

第51回 歴史ツーリング(結城編)

 

東上線若葉駅西口に集合し、雨の中歴史ツーリングを行った。今回は茨城県結城市、バスで片道2時間かかる行程なので、途中参加者の自己紹介やら人柄がうかがえるようなクイズなどをした。

次いで今井講師による結城氏に関する史実とエピソードを解説した。

 

<結城氏の盛衰> 

結城氏は関東を代表する名族で、佐竹氏・宇都宮氏・里見氏・千葉氏・那須氏・小

山氏・小田氏と共に、「関東八家」とか「関東八屋形」と呼ばれる。その租は秀郷流

藤原氏で、下野の小山政光の三男朝光がはじめて結城氏を称している。朝光の母寒河

尼が源頼朝の乳母であった関係から、朝光は治承四年(1180)の頼朝挙兵の直後か

ら頼朝に従った。朝光十四歳。頼朝を烏帽子親として元服し、頼朝の偏諱を賜って「朝

光」(はじめ小山宗朝)と名乗った。

 寿永二年(1183) 二月、志田義弘( 頼朝の叔父) が反旗を翻し、小山

一族はこれを野木宮合戦で打ち破った。頼朝は常陸・下野・上野・下総に

あった志田義弘の所領を没収し、軍功のあった小山一族に与えた。このと

き、朝光に下総国結城郡が与えられ、以後、結城氏を称するようになった。

 その後、朝光は奥州藤原氏追討の戦いで抜群の戦功を挙げ、陸奥国白河荘も与えら

れ、鎌倉幕府では評定衆の一人に列している。結城氏は初代朝光、二代朝広、三代広

綱の子どもがそれぞれ分立し、平方氏、山川氏、網戸氏、白河氏、金山氏、平山氏を

称した。この中で白河の結城氏が勢力を伸張し、惣領である結城の結城氏と比肩する

ほどになった。

 元弘・建武の争乱期になると、惣領結城氏と白河結城氏の力関係は逆転する。この

ときの惣領は結城朝祐だったが、後醍醐天皇の討幕挙兵に態度があいまいだったので、

後醍醐から冷遇された。これに対し白河の結城宗広・親光父子は、鎌倉攻めや六波羅

攻めに加わり、後醍醐方として大いに活躍し、元弘三年(1333)、宗広は多くの所領

を得、奥羽検断職に任ぜられた。(このとき、後醍醐天皇は結城氏の惣領職を取上げ

て宗広に与えたともいう)。

 建武新政府において、“三木一草”と呼ばれた人々がいた。三木とは、楠木

氏・結城氏・名和(伯耆)氏のことであり、一草とは千種忠顕のことである。い

ずれも後醍醐天皇の引き立てによる羽振りのよい人々をそう呼んだのである。

 やがて、足利尊氏が光明天皇をたて、後醍醐天皇が吉野へ逃れて、「一天両帝」の

南北朝時代に突入する。白河結城氏はとうぜん南朝方となり、結城の結城氏は北朝方

となった。結城氏六代の朝祐は足利尊氏の九州下向に従い、多々良ケ浜合戦で戦死、

その子直朝も常陸関城の戦いの負傷し死亡。家督は弟の直光が継いだ。直光は足利尊

氏に従い転戦し、各地で戦功をあげ、安房の守護職に任命されている。結城氏が「関

東八家」とか「関東八屋形」と称されるのは、この直光が安房国守護となったことに

起因している。室町時代には守護のことを「屋形」と呼んだからである。

 

<水野忠邦と天保の改革>

忠邦が唐津藩六万石の家督を継いだのは文化九年(1812)のことである。忠邦は

若い頃から幕政に参与したいという強い願望があった。吉宗の享保改革を推進した六

代忠之の影響もあったのだろう。しかし、唐津藩主は長崎守衛の任があって、幕政へ

の参与はできない規則であった。忠邦はそこで、唐津から浜松へ転封するよう運動を

はじめる。唐津も浜松も同じ六万石であるが、実収では唐津は二十万石近く、浜松は

表高六万石と変わりなく、たいへんな減収となる。家臣たちは挙ってこの転封に反対

した。すると忠邦は「唐津も浜松も同じ六万石ではないか。何の不足があるものか」

と退け、浜松転封工作を強行した。転封に反対した重臣二本松大炊は自殺した。

 文化十四年(1817)九月、忠邦は奏者番兼寺社奉行となり、浜松へ転封がなった。

忠邦を引き立ててくれたのは、親戚の老中水野忠成であった。忠邦はその後、大坂城

代、京都所司代を経て、文政十一年(1828)西丸老中に昇進。西丸老中とは、次期将

軍の家慶付きのことであり、ここに忠邦の天保改革への青写真が描かれることになる。

天保五年、忠邦は本丸老中となったが、家斉を取巻く寵臣(林肥後守・美濃部筑前守・

水野美濃守・中野碩翁)や愛妾お美代をはじめ大奥勢力が政治を左右しており、忠邦

には手が出せない。

 天保十二年(1841)一月、大御所家斉が歿した。忠邦はただちに家斉の寵臣グル

ープを追放して実権を握ると、宿願の“天保改革”に着手した。忠邦の理想は、吉

宗の享保改革、松平定信の寛政改革と同じ「復古主義」(幕府最初の政治)にあった。

その主なる政策は、

 一、人返しの法(農民を強制的に帰村させる)

 二、株仲間解散(物価引下げと商人の統制)

 三、倹約令(贅沢品や初物の禁止)

 四、出版統制と風俗取締り

 五、上地令(江戸・大坂周辺の土地を幕府領とする)

などである。しかし、この改革は評判が悪すぎた。とくに「倹約令」では、茶屋・料

理屋はじめ、贅沢な菓子や衣類、煙管・煙草入れ、櫛・簪にいたるまで細部にわたり

徹底的に取り締った。株仲間を解散させて物価値下げを命じてみたが、巧くいかない。

庶民の娯楽の寄席も十五席に減らし、芝居小屋は猿若町へ移転させた。おかげで江戸

の町には不景気風が吹き荒れ、失業者が増大した。

 忠邦の失脚は早かった。ある日、将軍家慶が食事の時、焼魚に新生姜が付いていな

かったので、「どうしたことか」と尋ねた。忠邦の倹約令に腹を立てていた大奥女中

は「それは水野様が大奥の費用を削っているからです」と応え、忠邦の改革が庶民を

苦しめていると、家慶に告げた。忠邦の命取りとなったのは「上地令」で、これには

江戸・大坂周辺に領地を持つ大名・旗本が猛烈に反対した。こうして忠邦排斥の気運

がにわかに高まっていった。

 天保十四年(1843)閏九月、忠邦は突然、罷免された。書付に「其の方儀、御勝

手向不行届の儀、之有り候に付、御役御免差控仰せ付けられる」とあり、ただの免職

ではなく、差控の処分が付いていた。忠邦自身は清廉な男で、悪い人物ではなかった

が、その抱負ほどの力量がなかったといえよう。弘化二年、外交問題で老中再勤とな

ったが、再び免職となり、加増一万石と家禄一万石の二万石を削られて五万石となり、

隠居謹慎を申渡された。嫡子忠精(ただきよ)は出羽山形へ移封されたが、忠邦は渋

谷の下屋敷で謹慎生活を送り、嘉永四年(1851)二月九日、五十九歳で歿した。法

名を英烈院殿忠亮孝友大居士。

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